博物館ランド

ミュージアムの面白かったところをレポートするブログです。

大阪市立東洋陶磁美術館「天目 ―中国黒釉の美」に行ってきました

それは宝石のように

大阪市立東洋陶磁美術館に行ってきました。特別展「天目 ―中国黒釉の美」が開催されています(会期は2020年11月8日まで)。

新型コロナウイルスの感染者数が、日々報道されるこの頃。どこへ出かけるにも混雑具合が気になりますが、私が訪れた7月半ば頃、展覧会は社会的距離がとれる程度に空いていました。手洗い・マスク等、自分にできる感染対策を心がけたいものです。

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さて、今回の特別展は天目茶碗がテーマ。主に中国の宋・金時代に作られた様々な種類の天目茶碗と、同じ系譜に連なる黒釉陶器、合わせて24点が展示されています。

実は昨年、国宝の曜変天目茶碗を見て以来、吸い込まれそうな黒釉の色が心に残っておりました。時には宇宙にも例えられる、深い黒。その世界の広がりを覗けるであろう今回の展覧会は、私にとって嬉しい企画です。

会場にはあいさつ文以外に長文の解説パネルはなく、その代わり一点一点にキャプションで解説が付されています。「とにかく実物をじっくり見て!」という印象の(?)展示構成。

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上の写真は、12~13世紀に作られた「黒釉 堆線文 水注」。現代のものと言われても通じそうな、モダンなデザインでした。

「きれい!」と思わず吸い寄せられたのは、12世紀の「黒釉 杯」(下の写真)。

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造形が美しく、やや青みがかった黒釉は艶やかで透明感もあり、杯自体が美しい玉のようでした。

そして特別展の目玉は、「国宝 油滴天目」。

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茶碗の内側にも外側にも、細かな斑紋が虹色に輝き、まるで宝石を見ているかのような美しさでした。免震台付回転展示台の上で、ライトを浴びながらゆっくりと回転し、きらきらと光ります。かつて豊臣秀次が所持し、その後名家で大切に引き継がれてきたという来歴も、この宝物に華やかな彩りを添えています。

このお茶碗でお茶を飲んだら、どんな気分になるでしょう・・・。かつて、誰かをもてなすために使われたであろう場面を想像してみました。

ちなみにこの油滴天目の前には、来館者が内側を覗き込めるように踏み台が備えてあり、様々な角度からじっくりと観賞することができます。

展示室にはそのほか、加賀藩主・前田家に伝来した重要文化財木葉天目や、放射状のグラデーションが美しい禾目天目など、見どころの多い作品が並んでいました。美しいものを純粋に眺め感嘆する、幸せなひと時でした。

陶磁器に映るもの

常設コーナーでは、朝鮮・中国・日本の陶磁器が、それぞれ年代ごとに展示されています。

中国の陶磁器は、古い時代のものでも完成度が高く、美意識と技術の高さを伺わせます。朝鮮のものでは、翡翠の色にも例えられた高麗青磁が美しく、また、愛嬌のある絵付けも魅力的です。人の手によって作られた陶磁器には、それを作った人々の生活や文化が映り込んでいるように感じられます。

また、特別展に合わせて開催されている特集展「現代の天目 ―伝統と創造」では、近現代の作家による天目茶碗約30点が展示されていました。特に目を引かれたのは、複数の作家による、曜変天目茶碗を再現した作品です。(下の写真は、九代 長江惣吉の「曜変」)。

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もともとの曜変天目は、12~13世紀の中国で作られたとされ、わずかに3点(4点という説も有)のみが現存しています。日本においては、最上級の天目茶碗と位置付けられてきました。

茶碗の内側に浮かぶ、青い星雲のような模様は、見る角度によって輝きを変化させます。この模様が現れる仕組みは、解明されていないとか。

この茶碗を作るために、多くの研究と試行錯誤が重ねられたことでしょう。再現された曜変天目の輝きには、古の名品に対する強い憧れと、新たな美を希求する心が表れているようにも思われます。このほかの作品も含めて、大変見ごたえのある特集展でした。

ところで。

田中芳樹の「銀河英雄伝説」では、紅茶好きの提督ヤン・ウェンリーが、彼の被保護者であるユリアン・ミンツからプレゼントされたティーカップでお茶を飲む場面があります。「指ではじくとすごくいい音のする、紙のように薄い手づくりのティーカップ」とのこと。

陶磁器は、一つ一つ色や形が異なり、それぞれに表情がありますね。高価なものではなくても、思い入れのある器で、あるいはお気に入りの器で、お茶を飲む時間は楽しいものです。(美術館の天目茶碗も、もともとはそういう時間をより豊かにするためのもののはず・・・いや、仮に使えと言われても恐れ多くて使えませんが)

一人でもそれなりに楽しいですが、別の誰かと共有できればなお素晴らしい。新型コロナウイルスが収束して、仲間と気兼ねなくお茶を楽しめる時間がまた訪れることを願います。

KIITO「イス・イズ・サイズ展」に行ってきました

「私」のための椅子

デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)で開催中の「イス・イズ・サイズ展 ―もの選びに、新たな視点を。」を見てきました(会期は2020年7月26日まで)。

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KIITOの建物は、もともとは神戸市立生糸検査所として1927年に建てられたもの。現在は「デザイン都市・神戸」の拠点施設となり、創作的活動を行う法人等が入居するほか、アートやデザインに関する催しや貸室等が行われています。

下の写真は、上の写真の入口を内側から見たところ。館内はリノベーションされていますが、生糸検査所であった頃の記憶が、ところどころに残されています。

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さて、「イス・イズ・サイズ展」は、KIITOと、木製品のブランド「うたたね」が主催する展覧会です。

服や靴にサイズがあるように、椅子にもその人に合ったサイズがあるとのこと。展覧会は、まず自分のサイズを知ることから始まります。

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スリッパに履き替えて、座り比べてみましょう。すると確かに、座面の高さによる座り心地の違いを感じることができます。私は自分の靴のサイズは知っていても、椅子のサイズは知りませんでした。自分に一番合うサイズを特製のタグに書いて、次のコーナーへ。

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メインとなるコーナーでは、「クリエイティブ・ディレクターのイス」「ピアニストのイス」「三姉弟のイス」など、それぞれ特定の人や目的のために作られた、8(+1)脚の椅子が展示されていました。そしてその製作過程が、作る人・使う人それぞれの視点から紹介されています。

製作過程のパネルを見ていると、個々人の生活スタイルや要望を、作り手が丁寧にすくいとって、具体的な設計に進化させていく様子が伺えます。

それは、単に座りやすい高さの椅子、というだけではありません。使う人が作業をしやすいように肘掛けの位置や形状を工夫したり、「愛犬家のイス」ではリード掛けやフード置きの機能も持たせたりと、こまやかな配慮が感じられます。「狂言師のイス」では、十二角形の形状で新しい見立ての可能性も提案し、伝統芸能に新たな風を吹き込もうとさえしているようです。

どの椅子も、生活をより快適にしてくれるものであり、そこに座る人を思いやる優しさが感じられます。そしてデザインが美しい。人生の時間を豊かにしてくれるオーダーメイドの椅子・・・これは憧れます。

会場では、この素敵な8脚の椅子に、座ることができます。個人的に気に入ったのは、「20年以上前に作ったイス」(次の写真)と「おばあちゃんのイス」(次の次の写真)。

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どちらも衝撃の座り心地の良さでした。茨木のり子も思わず倚りかかってしまう、椅子という家具の重要性について、自然と考えさせられます。

コンパクトな展示ですが、内容も会場の雰囲気も、丁寧で洗練された印象の展覧会でした。

ところで。

とある大学のとあるサークルの部室には、代々の部長だけに座ることを許された椅子があり、「部長席」と呼ばれていました。デザイン的にも衛生的にもきれいではなく、必ずしも座り心地がよさそうには見えませんでしたが、サークル内でのルールは守られ、一応大切にされていました。

椅子は人の居場所となり、そこには物語が生まれます。部長席の椅子も、悲喜こもごもの物語を数多く目にしたことと推察されます。

私たちは、自らの物語をともにする椅子を、選ぶことができます。座り心地の良いお気に入りの椅子は、素敵な物語の舞台となってくれるでしょう。そしていつか、一つの物語が終わりを迎えたとき・・・椅子が持ち主のサイズに合っていればいるほど、空っぽの椅子は、かつてそこに座っていた人の存在を、静かに訴えることでしょう。

国立国際美術館「インポッシブル・アーキテクチャー」に行ってきました

建築パラレルワールド

国立国際美術館「インポッシブル・アーキテクチャー 建築家たちの夢」を見てきました(新型コロナウイルスの影響で、会期は2020年2月28日までに短縮されました)。

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設計コンペで敗れたもの、事業が中止されたもの、建築家の自主的な提案・・・などなど、様々な理由で実現に至らなかった建築プロジェクトを紹介する展覧会です。20世紀以降の建築家や美術家、約40人によるユニークな構想を、ドローイングや模型、大画面に映されたCGなどで見ることができます。

入口近くでまず目を引かれるのは、ソヴィエトのウラジミール・タトリンが発表した「第3インターナショナル記念塔」(1919年)。ロシア革命ロシア・アヴァンギャルドの象徴的プロジェクトとのこと。インパクトのある造形に、思わず足が止まります。

螺旋状の巨大な塔の内側に、様々な施設を備えた立方体・三角錐・円柱・球状の建造物が作られています。その造形もさることながら、塔の高さは400メートル、4つの建造物はそれぞれ異なる速度で回転する予定だった、という構想にも驚かされます。当時のソヴィエトにはこれを実現できるだけの力がなかったとのことですが、もし実現していたら、すごい景観を作っていただろうなあと思います。

また、美しいドローイングを掲載した、ブルーノ・タウトの『アルプス書籍』(1919年)が展示されていました。そこに描かれた、山頂に光り輝く建築物のイメージは、まるでファンタジー小説の挿絵のようです。幻想的な光景を描き出した建築家の想像力に魅せられるとともに、第一次世界大戦で敗戦国となった、現実世界との対比についても考えさせられます。

黒川紀章ら「メタボリズム・グループ」による、都市計画の構想もありました。戦後の人口増加に対応するため、二重螺旋構造の巨大な居住用建造物を東京湾に建設する「東京計画1961 ―Helix計画」(1961年)や、空中に田園都市を作る「農村都市計画」(1960年)などが紹介されています。

これらの計画が示すビジョンは、それまでの日本の風景とはまったく異なり、SFの世界を見るかのようです。しかし、日本の未来図として、大胆かつ綿密に検討された様子が伺えます。

数々の「インポッシブル・アーキテクチャー」を見ていると、あるいはそうなっていたかもしれない、いくつものパラレルワールドを覗いているような気分になりました。それらは実現不可能かもしれませんが、魅力的なアイデアであり、現実社会の課題と理想が込められています。もしもこんな建物があれば、都市の表情は、私たちの生活は、どう変わっていただろう・・・と想像がふくらみます。

より良い世界のために

荒川修作+マドリン・ギンズによる「問われているプロセス/天命反転の橋」の模型(1973年~1989年)は、その大きさと造形によって、ひときわ強い存在感を放っていました。もともとはフランスのモーゼル河にかける橋として構想されたとのこと。この橋は、「不確定性とのつきあい」「惑星の叫び」等と名付けられた21の装置から構成され、いずれの装置も、通行人に特定の行為を強いる(体を折り曲げたり、傾けたりしなければならない)そうです。建造物が(強制的に)もたらす体験が、人間の中の何かを作り変える・・・?

正直なところ、制作の意図はよく分からなかったのですが、大変面白かったです。異様な造形にも惹かれますし、普通なら人にやさしい建造物を考えそうなところ、その逆をつく思考とわけの分からなさが、いっそ清々しく感じられました。橋として実用的かどうかはさておき、本当に何かを変える力があるのかもと思わせる、刺激的な作品です。

会場の終盤では、ザハ・ハディド設計の新国立競技場(2013年~2015年)が紹介されていました。

国際コンペで勝利し、オリンピック招致の過程でも使用され、法的にも構造的にも実現可能であったにも関わらず、白紙撤回されてしまった設計案。コストの問題がクローズアップされ、建築家を非難する報道が過熱しましたが、実現できなかった大きな要因は、発注側がプロジェクトをマネジメントしきれなかったことにあると言います。

会場には、華々しいCGや風洞実験模型のほかに、20冊以上に及ぶ実施設計図書が展示されていました。あとはゴーサインを待つばかりであったとのこと。これを作るために、どれほどのエネルギーが費やされたのかと考えると・・・いやもう、ただ立ち尽くすのみです。

建築は、周囲に及ぼす影響も大きいですね。一度作られた建物は長期間存在し続け、人々の記憶の舞台となります。だからこそ・・・本展で紹介された作品の多くからは、(時に突飛な手法であったとしても、)建築によってより良い空間を、ひいてはより良い世界を作ろうとする意思が、共通して感じられるように思います。

ところで。

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上の写真は、シーザー・ペリの設計による、国立国際美術館の建物。展示室はすべて地下に作られていて、地上にある金属フレームのエントランスゲートは、「竹の生命力と現代美術の発展・成長」をイメージしているとのことです。

博物館巡りにおいては、建築も大きな楽しみの一つ。有名建築家による建物にも、歴史的建造物にも、それ以外のものにも、建築の背景には人の思いがありますね。これからも心して注目しよう、と思いました。

姫路科学館「はりまの星・日本の星」に行ってきました

星図でたどる天文学のおはなし

姫路科学館企画展「はりまの星・日本の星 ~身近な星のものがたり~」に行ってきました(会期は2020年1月19日まで)。

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星座といえば、オリオン座やカシオペヤ座など、西洋起源のものが一般的です。しかし、東洋にも昔から独自の星座が存在しました。この展覧会では、西洋・東洋それぞれで考えられていた星空の姿とその移り変わりが、資料とともに紹介されています。

西洋の星座は、2世紀にはギリシャプトレマイオスによって、48の星座(トレミーの48星座)にまとめられました。その後、大航海時代を経て南天の星座が追加されるなど増減をくり返し、1922年に国際天文学連合の総会で、現在の88星座に統一されました。

西洋の星座のコーナーでは、美しい星座絵入りのフラムスチード星図(18世紀)や、天球を外側から見た視点(実際に見上げた星空の向きとは左右反転)で描いたヘベリウス星図(複製)、星の位置と明るさを正確に記した現代の星図や、天体写真を使った写真星図等が展示されていました。

星座は「夜空の地図」とのこと。会場では、星図の座標系の違いや、地球の歳差運動による分点の移動等についても解説されていました。きれいな星座絵が想起させるギリシャ神話や、消滅した星座等に変わらず惹かれる一方で、天文学が発達し、観測技術が進歩するにつれ、より細かく正確な「地図」が求められていることも分かります。

今後、もっともっと科学が発達したら・・・また新しい星図が登場するのでしょうか? それは、これからの物語ですね。

日本人が見た星空

会場では、東洋の星図や、日本人と天文学の関わりについて大きく取りあげられています。日本では、キトラ古墳の天井画にも見られるように、古くから中国の星座が使われていました。

東洋の星座のコーナーでまず目を引かれるのは、鮮やかな色彩の「高幡不動尊金剛寺曼荼羅(複製)」。須弥山に座ったホトケを中心に、北斗七星・九曜・中国の星座である二十八宿をそれぞれ表した神像と、西洋の十二星座を表す絵が配置されています。このような星曼荼羅は、平安時代にはすでに作られていたとのこと。東洋と西洋の星座が一つの曼荼羅に配された様子は興味深く、様々な姿に描かれた星の神々は、東洋版の星座絵という趣もあって、一つ一つ見ごたえがあります。

また、初めて日本独自の暦法を完成させた江戸時代の天文学者渋川春海の業績についても紹介されていました。

渋川春海の時代に知られていた「天象列次分野之図」(中国の星座をもとに朝鮮で作られた星図)や「天経或問」(西洋天文学の内容を含んだ中国の書籍)のほか、渋川春海が自身の観測をもとに作成した星図「天文成象」、当時の天体観測機器である渾天儀の模型等が展示され、渋川春海が行った改暦や、新しく作った星座等について紹介されていました。また、日本初の天文学入門書「天文図解」や、望遠鏡製作で知られる岩橋善兵衛が著した「天文捷径 平天儀図解」等も展示されていました。

これらの資料からは、江戸時代にも、人々が天体現象に興味を持っていたこと、特に一部の人々は自ら観測・計算して、宇宙の姿を知ろうとしていたことが分かります。

彼らの目に、西洋の新しい天文学の知識は、どんなふうに映ったでしょうか。また、今までの星図になかった星を観測し、新しい星座として名付けたとき、渋川春海はどんな気持ちだったでしょうか。その情熱とひたむきさを想像します。

星の和名という楽しみ

会場の後半は、播磨地域を中心にした、星の和名についてのコーナー。日本には昔から、生活に即した、日本独自の星の名前が伝えられていました。星の和名は、オリオン座の三ツ星を農具に見立てた「からすき星」や、さそり座のアンタレスと両脇の星を天秤棒に見立てた「担い星」など様々なものがあり、同じ星でも地域によって呼び方が異なります。星の和名についての研究は、「天文民俗学」とも呼ばれています。会場では、星の和名の調査に尽力した、桑原昭二氏(1927~)と北尾浩一氏(1953~)について紹介されていました。

桑原氏は、元高等学校教諭。部活動顧問として天文気象班を指導し、生徒とともに掩蔽観測や黒点観察を行ったほか、日本各地に伝わる星の和名を収集し、その成果を『星の和名伝説集 瀬戸内はりまの星』(1963年・六月社)等にまとめました。また北尾氏は、1978年から星の和名収集を始め、現在も調査を続けています。桑原氏が調査を行わなかった離島や北海道等にも訪れ、2018年には、900種あまりの星の和名を掲載した『日本の星名事典』(原書房)を出版しました。

会場には、桑原氏が星の和名収集を行うきっかけとなった野尻抱影氏の書籍や書簡のほか、高校での観測資料や、2人がそれぞれ全国各地の人々に話を聞いたときの調査メモ、成果をまとめた報告書等が展示されています。

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そのほか、様々な星の和名が、季節の星座ごとにまとめられ、その呼び名のもとになった生活用具等とともに紹介されていました。

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星の和名は、時計が普及していない頃に口伝えで伝わっていたものが多く、時代が下るにつれ失われていきます。各地を回って、人々の昔話の中からそれを拾い上げる作業は・・・例えば川で砂金を探すような、宝探しを連想させます。そして、多くの苦労を伴ってまとめられたであろうその成果は、西洋化と画一化が進んだ現代において、まさに宝物のようです。

私たちはギリシャ神話を読んで、オリオン座の星に狩人の姿を重ね合わせます。同じように、星の和名を知ることで、日本の様々な場所で星を見上げてきた人々の姿や、彼らが描いたイメージを、夜空に共有することができます。星を見るという古今東西共通の楽しみに、日本の文化に根差した独自の物語を加えることができるのです。

ところで。

私は以前たまたま、桑原昭二氏ご本人から、星の和名収集に関するエピソードを伺ったことがあります。終戦後それほど時間が経っていない頃にも、高校の生徒と一緒に自転車で遠くまで出かけたとのことでした。

まだあまり余裕のない時代だったのでは、という意味のことを尋ねると桑原氏は、苦労はあったとしながらも、

「そこが天文の浮世離れしたところでな」

と笑みを浮かべられ、

「楽しい時代やった」

とおっしゃいました。

博物館の楽しみ方(1)―展示ケース編―

展示ケースは目立たない

「博物館のどこが面白いの?」と時々聞かれます。

うーん。強いて一言で表せば、「そこにしかない出会いがある」ということになるでしょうか。でも、細かく説明し始めると、それなりに色々あります。ということで参考までに、ごく個人的な視点で、私なりの一般的な博物館の楽しみ方を書いてみたいと思います。

展示自体をどう楽しむか、ということもいずれは書きたいと思いますが、今回は展示ケースについて。多くの博物館では展示ケースが使われています。ケース自体はスルーされがちですが、注目すべきポイントもあります。

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(注:上の写真はイメージです。)

博物館用の展示ケースには、特殊なガラスが使われています。その特徴は(多分)、反射や映り込みが少ないこと、色をできる限り透明に近づけていること、継ぎ目の少ない大きなガラスを使用していること。

展示ケースの役割の一つに、「展示物をしっかりと来館者に見せる」ということがあります。そのために、上記のようなガラスを用いて、ケース自体ができるだけ邪魔にならないように、来館者が展示物本来の色や質感を感じ取れるように工夫されています。

また展示ケースには、「ケース内の展示物を守る」という重要な役割もあります。盗難や破損から守るのはもちろんのこと。館によっては、気密性の高いエアタイトケースを使用して、温湿度の変化や虫やホコリなど、悪影響を与える要因から展示物をガードしています。展示ケースの中に設置された照明には、有害な紫外線を抑えたものが使われている場合もあります。

いわば展示ケースは、自らを邪魔者と認識し、できるだけ目立たないようにふるまいつつも、24時間体制で役目をしっかり果たしているのです。なんて健気な奴でしょう。そう思いませんか。

展示ケースの魔法

そんな展示ケースも、使われ方は様々。ケースの中に所狭しと展示物が並べられることもあれば、「この面積にたったこれだけ?」とびっくりするほど余裕のある配置がなされることもあります。

壁面ケースに大型の展示物が入れられている時などは、それをどうやって搬入したのかが気になりますね。横のドアから入れたのか、ガラス面がどこか外れるようになっているのか、高いところの作業はどうするのか等々。仏像だったら自分で歩いてくれるかもでも言うことを聞いてくれなさそう等、展示作業の様子を妄想して楽しめます。

何にせよ、ケース自体や、ケース内での配置によって、展示物の印象は大きく変わってきます。不思議なのは、それ単体ではさして目立たなさそうな資料が、例えば行燈型の展示ケースに丁寧に入れられて、スポットライトを浴びると、急に貴重なものに見えてくることです。また、特定の展示物専用に作られた特殊な展示ケースが、その展示物の新たな魅力を引き出す場合もあります。

私はそれらを「展示ケースの魔法」と勝手に呼んでいます。博物館の学芸員さんは、そういった魔法を使いこなしながら、丁寧な解説を付けて、展覧会の文脈の中で資料が輝けるように、また、私たち一般の来館者が資料の魅力に気づきその物語を読み解けるように、工夫してくれます。博物館は、魔法を楽しむ場所でもあるのです。

楽しみ方もそれぞれ

展示ケースをめぐる事情は館によって様々であると推測され、今まで申し上げたことが当てはまらない場合もあります。展示物の種類によって、展示ケースに求める機能が異なるかもしれませんし、そもそも設備や人員のための十分な予算がない場合もあります。一方で館によっては、デザイン性の高い展示ケースや、木製のレトロな展示ケース等を置いていて、それが館の特色や雰囲気を作っている場合もあります。「一般的な博物館の楽しみ方」と最初に言ったものの、博物館は多様です。そしてそれが、面白いところでもあります。

ところで。

芸術家の岡本太郎は、自分の作品を展示ケースに入れたがらなかったそうです。壊れてもいいから作品を生で展示して、そのパワーや迫力を直接感じて欲しかったとか。彼がプロデューサーを務めた大阪万博の「太陽の塔」でも、世界中から集めた貴重な民族資料を、ケースには入れませんでした。

その資料を引き継ぐ国立民族学博物館では、多くの場所で、展示ケースを使わない露出展示の手法がとられています(もちろん資料の種類に応じて、展示ケースが使われる場合もあります)。展示ケースに、館それぞれの考え方も表れますね。

世田谷文学館「小松左京展 ―D計画―」に行ってきました

扉を開けて

世田谷文学館に行ってきました。企画展「小松左京展 ―D計画―」が開催されています(会期は2019年12月22日まで)。入口の自動ドアには、大きく「小松左京」の4文字が・・・。これだけで、なにやら異世界への入口めいて(?)います。

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企画展を見る前に、まずは1階のコレクション室へ。こちらにはムットーニのからくり作品が置かれていて、決まった時間に上演されます。

カタカタと機械仕掛けの音がして、からくり箱の扉が開くと、そこは小さな別世界。作りこまれた舞台の中で小さな人形が動き、夏目漱石の「夢十夜」や中島敦の「山月記」等、文学作品の一場面を上演します。ムットーニ本人による朗読に、音や光の幻想的な演出も加わって、その様子はさながら夢の世界のよう。すべてが再び動きを止めるまで、ただ引き込まれます。

からくりコーナーの奥では、コレクション展「『新青年』と世田谷ゆかりの作家たち」が開催されていました(こちらは2020年4月5日まで)。

新青年」は、1920年に創刊された雑誌。江戸川乱歩をはじめ、国内外の探偵小説を多数掲載しました。会場では、「新青年」のあゆみが紹介されるとともに、執筆した作家たちの直筆原稿や、作家たちの間で交わされた書簡等が展示されていました。

中でも横溝正史関連の資料は多く、小中学生の頃に横溝作品を読みふけっていた私にとっては、ひときわ感慨深かったです。直筆の文字が拝めるなんて、あの頃は考えもしませんでした。

当時、探偵小説は人気を博していたようですね。「新青年」という雑誌の性質から、探偵小説は若者の冒険心に訴えるものという位置づけだったのかな等と考えながら、単純にわくわくして本の扉を開いた、子供の頃を思い出していました。

戦争を経て、未来へ

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2階・企画展示室の「小松左京展」では、まず作家・小松左京(1931-2011)の生い立ちが、写真と自伝の文章で綴られていました。戦争の中にあった子供時代、「人生で一番すばらしかった」三高時代、イタリア文学を専攻した京大時代、演劇への熱中、実家の工場が倒産したことによる多額の負債、SFの手法で戦争を描き作家デビューのきっかけとなった作品「地には平和を」・・・。

作家になる前の小松左京は、大学卒業後しばらくの間、経済誌「アトム」の編集に携わります。その中で、小松左京湯川秀樹にインタビューした号が展示されていました。湯川秀樹の「科学技術の進歩に思想が追い付いていない」という趣旨の発言が、その後の小松左京の活動とどこかリンクするようでもあり、印象的でした。そのほか、「漫画家モリ・ミノル」としての一面を示す貴重な資料も展示されています。

また、作家となった後の幅広い交流の様子も紹介されていました。昔から「自他ともに認めるひょうきん者」だったという小松左京。作家同士で交わされた書簡や、自ら会長を務めた「日本SF作家クラブ」の刊行物等からは、ユーモアに富んだ、魅力的な人柄が感じられます。

そして、その仕事ぶりは非常にパワフル。作品執筆以外にも、国際SFシンポジウムの開催、映画制作、大阪万博テーマ展示のサブプロデューサーや、花博総合プロデューサーの仕事にも全力投球した様子が紹介されていました。

映画「さよならジュピター」は、SF作家ならではのSF映画をと、小松左京が原作・脚本・総監督・製作を引き受けて作ったもの。会場では、制作過程を示す資料や模型、メイキング映像等を見ることができます。一方、大阪万博では膨大な仕事を引き受け、花博では「名誉職から権限を持つ責任者に自分を昇格」させたとのこと。万博後の世界を見据えながら、理念を作り、実現のためのレールを敷いて、懸命に取り組んだ様子が見てとれます。その仕事の進め方からは、ビジョンと道筋を見失わない力強さが感じられ、こういう人と一緒に仕事ができたら楽しいだろうなあと、つい思ってしまいました。

小松左京自身は徴兵されたわけではありませんが、その言葉の端々からは、青春時代に影を落とした戦争の影響が感じられます。それだけに、仕事に取り組む情熱や、未来を目指す意志の強さが際立つような気がしました。

 SF小説の力

会場では、執筆に9年をかけた代表作日本沈没が大きくとりあげられていました。「小説『日本沈没』再読」と題されたコーナーには、作中での一連の災害が日本地図に表示され、登場人物たちの言動も紹介されています。被害の様子は新聞記事風のパネルにまとめられていて、実際の出来事と勘違いしそうなほどリアルな雰囲気。小松左京が執筆にあたり、地震のメカニズムや被災者の避難方法等について検討した手書きのメモや、日本列島の質量を計算したというキャノーラ計算機等も展示されていました。

小説『日本沈没』では、被害の状況や、被災者を襲う混乱、政治経済・国際社会の動きまでもが詳細に描写されていて、エンターテインメントの枠を踏み越えるほどの迫力が感じられました。広範な知識を土台として、科学的に、かつ想像力を思い切り働かせて世界を丸ごとシミュレートした、作家のすごさを改めて思います。

そして小松左京は、このSF小説の世界――フィクションだが起こり得る未来――を通して、読者への問いかけを行っているといいます。

「日本という国がなくなった時に、日本人はどう生き延びていくのか」。それは、災害の時に自分がどう行動するかということだけでなく、国家とは何か、日本人とは何か・・・という問いにもつながります。

また小松左京は、「SFとは希望である」という言葉も残しています。日本列島が沈んでしまう絶望的な光景の先に、あるいはそれを読んだ人が思い描く未来のヴィジョンに、どんな希望を見出せるのか? それは、私たち次第かもしれませんね。

ところで。

寒い日には、カイロがあると重宝します。カイロは、鉄の酸化反応で発生する熱を利用したもの。袋から出して空気に触れさせると、ほどなく熱を発し、長時間にわたって温もりを与えてくれます。

一方で文学館においては、いかなる仕組みでかは分かりませんが、様々な資料に接することで、その作家の持つ「熱」を感じることができます。その熱は時として胸に居座って、温もりと、新しいパワーを分けてくれます。

京都国立博物館「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」に行ってきました

「流転」を体験する

京都国立博物館に行ってきました。特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催されていました(会期は2019年11月24日まで)。

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鎌倉時代に描かれた「佐竹本三十六歌仙絵」は、数ある歌仙絵の中でも特に美しく名高い作品。幕末には上下2巻の巻物の形で、秋田藩主であった佐竹家に伝えられていました。しかし、これが明治に入って売りに出されます。実業家の山本唯三郎氏が購入したものの短期間で手放し、その後は、あまりに高額のため一括購入できる人物が見つかりませんでした。そして1919年、ついに三十六歌仙絵巻は、複数の人物によって分割購入されることになりました。絵巻物は、歌仙一人ずつに分断され、それぞれ値段がつけられて、くじ引きで決定された所有者に、バラバラに引き取られたのです。

今年は、その「絵巻切断事件」からちょうど100年目。分断された37枚(三十六歌仙絵+住吉大明神図)の歌仙絵のうち、31枚がこの特別展で展示されます。鎌倉時代に誕生してから長い間大切に伝えられ、分断されながらも激動の時代を生きのびて、このたび再会した三十六歌仙絵・・・どこか奇跡的な雰囲気さえ漂う(?)、ドラマティックな展覧会です。

特別展では、100年前の絵巻分断の経緯が、分かりやすく解説されていました。

分割購入の「世話役」の一人で、大きな役割を担ったのは、三井物産の設立に関わった実業家であり、茶人としても知られた益田鈍翁氏。特別展の会場には、購入者を決める抽選会の舞台となった「応挙館」の写真や、部屋に設置されていた襖絵、分断にあたっての申合書、くじ入れとして使用された竹筒(花入れに加工済)、くじ棒等も展示されていました。

これらの資料が並べられたコーナーは、当時の応挙館の雰囲気を伺わせるようなレイアウトで、来館者の想像力を刺激します。解説文で事件の経緯を追いながら実物資料を眺めていると、まるで100年前の出来事を追体験しているような感覚に陥りました。

また、分断に際し元の絵巻の状態を正確に写しとって作られた摸本や、各所有者たちが歌仙絵に取り合わせて使用した茶道具等も展示されていました。せめて複製を作って元の絵巻の状態を記録・保存しようとしたこと、一枚の歌仙絵のためにふさわしい道具を選び抜いたことなど、人々の佐竹本三十六歌仙絵に対する思い入れの強さを感じることができます。

三十六歌仙のいる風景

展覧会の目玉は何と言っても、100年ぶりに再会した「佐竹本三十六歌仙絵」。歌仙絵には、各歌仙の紹介と代表歌が添えられています。展覧会場では、歌仙絵が一枚ずつゆったりと展示され、和歌の読み下し文・現代語訳も掲示されていました。

歌仙絵の大半は背景の描写もなく、シンプルに見えますが、人物が明確に描き分けられ、眼や髪、口元などが繊細な筆致で表現されています。ぼんやりと物思いにふけるものや、一瞬の驚きを捉えたもの、寂しそうに背を向けたものなど、表情も様々。それらは、単眼鏡で拡大して観察すると、一層はっきりと感じられます。

彼らの表情が語るのは、歌に込められた心情。和歌はたったの31文字ですが、言葉にならない文字の隙間を、歌仙たちの表情が埋めてくれるようでもあります。そして、歌の背景にある気持ちが、私たちにも十分共感できるものであることを教えてくれます。

さて、その歌仙絵の所有者たちには、お茶という共通の趣味がありました。分断後の歌仙絵は、茶室の床に掛けられるよう、掛け軸にされています(工夫をこらした表装も見どころの一つです)。

生き生きとした歌仙たちの表情を、狭い(狭くないかもしれませんが)茶室の床に掛けて、じっくり眺めることを想像すると・・・何とも言えない愛着というか、まるで古い友だちに対するような親しさが感じられたのではないかなあと思われました。

この展覧会では、ほかにも、「高野切」「三十六人歌集」等の著名な古筆や、様々な柿本人麻呂図・三十六歌仙絵などが展示されていました。古筆の流麗な筆跡には、(それを読めない私にとっても、)うっとりするような美しさがあり、見ごたえがありました。また何より、本当に長い間、三十六歌仙が愛され続けてきたことが分かります。

最後のコーナーに展示されていたのは、江戸時代の歌仙絵。その中の、狩野英岳筆「三十六歌仙歌意図屏風」には、三十六歌仙の歌の中の風景が、鮮やかな色彩で描かれていました。常盤の松や、ホトトギスの鳴く山中・・・それらは、単に「きれいな景色」というだけではなく、歌に詠まれた人の心が重ねられていて、目には見えない奥行きを感じさせます。

ところで。

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上の写真は、先日撮影したお月様。佐竹本三十六歌仙絵の中にも、月を詠んだ歌がいくつかありました。

この月は、今私が一人で見上げているだけの月ではなく、藤原高光が、源信明が・・・きっとたくさんの人たちが、それぞれの気持ちを映しながら見上げた月でもあります。そう考えると、寂しい気分のときも、少し心強いかもしれません。