博物館ランド

ミュージアムの面白かったところをレポートするブログです。

備前長船刀剣博物館「一文字と長船」に行ってきました

国宝・山鳥毛の魅力

瀬戸内市にある備前長船刀剣博物館に行ってきました。訪れた日には、特別展「一文字と長船」が開催されていました(会期は2019年10月27日まで)。

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週末の博物館で、まず目に入るのは来館者の長い列・・・皆さん(私も含めて)のお目当ては、特別展会期中に一週間だけ展示される、国宝「太刀 無銘一文字(山鳥毛)」。備前の刀工集団の中でも名高い福岡一文字派の作と言われ、上杉謙信も愛したという名刀です。「景勝公御手選三十五腰」(上杉家が所蔵する数百口の刀のうち、上杉景勝が特に好んだもの)の一つでもあるとか。

博物館で目にする日本刀は、どれも美しく心惹かれるものが多いですが、山鳥毛の見ごたえは格別でした。

備前刀は「優美」なイメージがありましたが、こちらの山鳥毛は、「豪壮」で迫力を感じさせる姿。そして、刀身全体に(刃先から鎬筋までいっぱいに)見られる、激しく華やかに乱れた刃文が、ひときわ目を引きます。

山鳥毛の名前の由来は諸説あり、特徴的な刃文が「山鳥の羽毛のようだから」とも「山野が燃えるようだから」とも言われています。そう言われて実物を見ると、確かに刀身全体に羽をまとったようでもありますし、消えない炎をまとっているようでもあります。

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この写真では分かりにくいですが、個人的には、山鳥毛の刀身がオーラを放っているように感じられました。思わず目が吸い寄せられますし、見る角度を変えれば光の反射で表情が変わり、人を飽きさせません。いつまでも眺めていたくなるような一口でした。

現在は個人蔵の山鳥毛ですが、瀬戸内市はこれを買い取るため、「山鳥毛里帰りプロジェクト」として、ふるさと納税で寄付を募っています。目標金額は6億円。購入に成功すれば、日本刀の価値の高揚や伝統技術の継承、日本刀文化の発信等に山鳥毛を活用するそうです。

かなりの金額で、一つの地方自治体にとって容易なことではありませんが、この太刀には、「それでも挑戦しよう」と思わせるような、多くの人を惹きつけるパワーがあります。地域ゆかりの宝物を残す取り組み、ぜひ見守りたいものです。(2020年1月26日、目標金額達成おめでとうございます!)

刀匠の里

風土に恵まれ、古くから刀匠の里として栄えた備前。現在国宝や重要文化財に指定されている刀剣のうち、約半数を備前刀が占めていることからも、その隆盛ぶりが伺えます。

展覧会では、備前の代表的な刀工集団である、一文字派長船派の刀工たちの作品40点が展示されていました。

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上の写真は、長船派の「太刀 銘 光忠」(鎌倉中期)。華やかな刃文が目を引きます。光忠を「事実上の祖」とする長船派は、その子供や孫にも名工が続いて、刀剣史上もっとも大きな流派を形成したとのことです。

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この写真は、一文字派の「太刀 銘 則包」(鎌倉前期)。なんとこの太刀も、「景勝公御手選三十五腰」の一つということです。この太刀は、山鳥毛の隣に展示されていました。

山鳥毛と則包。かつて上杉家で所蔵され、景勝も手に取った二口の太刀が、時を経て、現代の博物館で再び相まみえる・・・時代の流れを思わずにはいられない、貴重な競演でした。

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上の写真は、岩戸一文字派の「太刀 銘 吉近」。拵えにも目を引かれました。鞘には、暗めの緑を背景に、黒い漆で波の模様が施され、その上に、波しぶきのようにも星のようにも見える金の粒が散らされています。

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そして、鍔には小さな龍が泳いでいました。もしかしたら、刀身を龍に見立てているのかも・・・などと、想像力を刺激されるデザインでした。

 さて、全国に名をとどろかせた備前刀ですが、16世紀末の大洪水で7千人以上の死者を出す壊滅的な被害を受け、日本刀の生産地としては衰えたそうです。しかし、多くの武将に愛された刀剣は今も残り、刀匠たちの名と魂を留めています。また、この博物館では、現代の刀匠による実演で、伝統の技を見学することもできます。

ところで。

司馬遼太郎の短編小説「菊一文字では、鎌倉時代の古刀「菊一文字則宗」(※則宗一文字派の祖)が、新選組沖田総司の佩刀として登場します。自らの生が長くないことを悟った沖田が、700年にも及ぶ太刀の寿命とその美しさに、特別な感動を抱く場面は印象的です。

沖田の愛刀が本当にそれであったかどうかは判然としませんが、私たちは博物館で、古い時代の一文字派長船派の実物を目にすることができます。そして小説の中の沖田と同じように、刀剣の姿に見とれ、その一口が歩んできた長い歴史に思いを馳せることができるのです。

京都国立近代美術館「ドレス・コード? ―着る人たちのゲーム」に行ってきました

「着る」ことを考える

京都国立近代美術館に行ってきました。ICOM京都大会の開催に合わせ、「ドレス・コード? ―着る人たちのゲーム」展が開催されています(会期は2019年10月14日まで)。この特別展は、京都国立近代美術館と京都服飾文化研究財団との共同開催です。

入って最初のコーナーは、「裸で外を歩いてはいけない?」ミケランジェロ・ピストレット作「ぼろきれのヴィーナス」が展示されています。少し体をくねらせて、ぼろ布の山の前に立つヴィーナスは、どの服を着るべきか迷っているようでもあり、大量の服の処分に困っているようでもあります。ヴィーナスの場合は、ぼろきれを着なくても裸のままで良さそうですが、私たちはそういうわけにもいきませんね。

展示室には、歴史的衣装やファッションブランドの製品、マンガとのコラボ作品、ファッションをテーマにしたアーティストの作品など、多彩なアイテムが展示されていました。そして、コーナータイトルは、「教養は身につけなければならない?」「大人の言うことを聞いてはいけない?」など、すべて問いかけ形式。服を着るという行為がいたって身近であるために、自らの日々の装いについても、つい考えさせられます。

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「組織のルールを守らなければならない?」のコーナーでは、19世紀から20世紀にかけての様々なスーツがずらりと並んでいました。現代ビジネスパーソンの制服とも言えるスーツ。襟の幅やズボンのシルエットなど、デザインの違いで印象も異なり、流行の移り変わりも見てとれます。

また、同じコーナーには、制服を着た学生が登場する映画のポスター展示もありました。清楚な女子高生あり、「不良」あり。制服を着ることは、ある組織に属していることを示す一方で、着こなしによっては、組織からはみ出していることを表す場合もあります。

ちなみに、女性の社会進出を後押しし、革命的とも言われたシャネル・スーツは、「服は意思をもって選ばなければならない?」のコーナーにありました。自分らしい、自由で新しいスタイルと、多くの人が認めるエレガントさ。それが両立していればこそ、広く支持を集めたのかなと思います。

「働かざるもの、着るべからず?」のコーナーでは、もとは労働のための衣服であったジーンズが、しだいにお洒落なアイテムと見なされるようになった様子などが紹介されていました。ドレス・コードも、時代によって、あるいは場所によって、決して不変ではありません。

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上の写真は、同じコーナーに展示されていた「アシードクラウド」。架空の職業をテーマにデザインされた洋服とのこと。現実世界にありながら、どこかファンタジーの世界観を感じさせてくれます。

ゲームの参加者

一般人のファッションを写した写真の展示も印象的でした。

「他人の眼を気にしなければならない?」のコーナーに展示されていたのは、ハンス・エイケルブームの「フォト・ノート1992-2019」。これは、世界各地で道行く人を撮影した膨大なスナップ写真の中から、同じような服装の人を何組か集めて展示したものです。まったく違う人でも、服装が同じであれば似たような印象を持ってしまう・・・他人を見た目で判断するときの、服装の重要さに気づかされます。一方で、異なる脈絡で生きている人たちが、偶然同じ服を着ている様子は、なんだか面白いです。

「誰もがファッショナブルである?」のコーナーには、都筑響一の「ニッポンの洋服」が展示されていました。レディース(暴走族)、ロリータ、極道ジャージなどなど、日本各地のローカルなドレス・コードが、写真と解説で紹介されています。時にはつつましく、時には周囲に眉をひそめられながらも自らのファッションを貫く人々と、それらを愛おしむような都筑氏の視線が素敵です。

自己の感性や主張、他者の評価、世間一般のドレス・コード、お値段、快適さ・・・時に相反する要因を勘案しながら私たちは服を選び、そしてそれは否応なしに自らの内部を表現することにつながります。何を着るべきか。そして、他者の服装から何を読み取るべきか。移り変わるドレス・コードに振り回されつつ、私たちは日々、気の抜けないゲームを繰り広げています。

そういえば、この展覧会のお客さんにはお洒落な人が多い、気がします。展示物以外の見どころかもしれませんね。

ところで。

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上の写真は、兵庫県立考古博物館に展示されているフィギュア。古代の戦いの服装が、発掘された資料をもとに再現されています。

当然ながら、この時代にはすでに「着る人たちのゲーム」は始まっていたことでしょう。そして実際に写真の彼も、その服装によって明確なメッセージを発しています。私たちも同じゲームの参加者として(?)、しっかりそれを受け止めたいものです。

「太陽の塔」内部公開に行ってきました

EXPO'70への憧れ

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1970年、アジアで初めての国際博覧会が、大阪で開かれました。いわゆる大阪万博です。太陽の塔は、万博のテーマプロデューサー・岡本太郎がデザインした、「人類の進歩と調和」を伝えるテーマ館の一部でした。

と、もはやこんな説明も不要ですね。太陽の塔は、歴史的な万博から49年が経過した今も、万博のシンボル、大阪のシンボルとして、大阪府吹田市万博記念公園に立ち続けています。

その後ろには、同じくテーマ館を構成していた、丹下健三デザインの大屋根の一部も。

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その太陽の塔の内部が復元され、2018年から公開されています。1970年当時と比べると、だいぶ様変わりしたようですが、基本的なメッセージは変わることなく、かつての空気を今に伝えています。

当時の万博を知らない私にとって、太陽の塔はほのかな畏怖と憧れの対象。外から姿を眺めたことはありますが、中に入るのは初めてです。

入館は完全予約制。建築基準法の関係で、一度に入れる人数に限りがあるとか。スタッフの方の案内で、16人ずつ入場します。

入場してすぐのところに、テーマ館の構想を練っていた頃の、岡本太郎のデッサンがありました。すでに現在の姿に近い太陽の塔が、紙の上に産声を上げています。

そこを通り抜けた先に、地下展示「いのり」の一部が復元されています。新たに作り直された「地底の太陽」を中心に、万博の際に集められた神様の像や仮面などが展示されていました。

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暗い部屋の中で、独特の存在感を放つ地底の太陽。その周囲に並べられた神像や仮面は、世界の色んな場所で、実際に使われていたものです。人間の精神世界を象徴するこれらの展示物は本物でなければならない、という基本方針のもと、東大や京大の研究者らによる収集団が結成され、約2500点の民族資料が集められました。現在、その貴重な資料は、万博を機に設立された国立民族学博物館に収蔵されています。

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当時の大阪万博のスケールの大きさには、驚くばかり。

テーマ館の地下展示はほとんど失われていますが、プロジェクションマッピングによる演出で、当時の様子を垣間見ることができます。

一日数十万人が訪れた世紀のイベント。大混雑だったそうですが、やはり実際にこの目で見てみたかったなあと思います。

太陽の塔という生き物

太陽の塔のメイン展示となっているのは、塔の中心にそびえる「生命の樹」です。踊るようなフォルムの樹に沿って、原生生物、三葉虫、魚、恐竜、哺乳類など、太古から現在にかけて、地球上に存在した様々な生き物たちが姿を見せています。

ひときわ元気よく楽しそうなのが、原生生物。

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ほかの動物たちも、リアルで生き生きとした存在感がありました。有機的な生命の樹と、生き物たちのエネルギーが合わさって、もう何というか、圧倒的な空間を形作っています。

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赤い壁の突起には、音響効果があるとのこと(会場のBGMは、大阪万博のときに作られた「生命の賛歌」でした)。

その突起は襞のように、通路は血管のようにも見え、その中に立つと、太陽の塔という生き物の体の中にいるのだなと思えてきます。入館者自身が太陽の塔の血液となり、生命のエネルギーの流れに乗って、塔の中を巡っているのかもしれません。

途中で何度か立ち止まりつつ、色んな生き物を見ながら階段を上っていきます。体の大きなブロントサウスルは、生命の樹から一度も降りたことがないそうです。かつて電気仕掛けで動いていたというゴリラは、約50年の歳月を感じさせる傷んだ状態のまま、あえて展示されていました。樹の上のほうから下を覗き込むと、はるかな時間と空間の中に生き物たちのパワーが渦巻いていて、ただ引き込まれます。

そして、生命の樹のてっぺんにいたのは、ネアンデルタール人クロマニヨン人。他の生き物に比べると小さな存在ですが、太古からの命の流れと確かにつながっています。

 そのほか、かつて大屋根に接続していたという太陽の塔の腕の内側や、1970年当時の案内表示など、見どころは盛りだくさん。帰り道となる下りの階段の壁には、解説パネルも展示されていました。

ところで。

岡本太郎の著書に、「今日の芸術 ―時代を創造するものは誰か」(光文社知恵の森文庫)があります。1954年に刊行された内容ですが、その明快な言葉は時代と常識を乗り越え、現代の私たちにも響きます。

「鑑賞――味わうということは、じつは価値を創造することそのものだとも考えるべきです。」というのは、個人的に好きな一節。

芸術作品と向き合ったとき、鑑賞者は自分の心の中に、何らかのイメージを創り出します。そうすることで鑑賞者も「創造に参加する」とのこと。一つの作品から、鑑賞者の数だけ異なるイメージが生み出されます。そのクリエイティブな心の動きは、人生を豊かに彩り、時に作品の価値を根底から覆す・・・。

そうやって、太陽の塔の価値を創り、塔を生かし続けていくのは、ほかの誰でもなく、私たち自身かもしれませんね。

太陽の塔に限らず、他の芸術作品や、身近なミュージアムのコレクションについても。

富山市科学博物館「カラッから生物史 ―殻の化石の物語」

殻が教えてくれる

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富山市科学博物館に行ってきました。富山県の自然に関する展示を中心に、プラネタリウムや体験型の実験装置も備えた総合科学博物館です。

特別展示室では、企画展「カラッから生物史 ―殻の化石の物語」が開催されていました(会期は2019年5月26日まで)。室内には文字どおり、たくさんのカラが展示されています。

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先カンブリア時代の終わり頃から、数ミリほどの小さな殻を持つ生物の化石が現れ始めたとのこと。「殻の化石の時代から」のコーナーでは、約5億4100万年前のカンブリア時代から、最も新しい時代である第4紀までの殻の化石が、時系列に沿って展示されていました。

これほど古いものが残っているのは、硬い「殻」ならでは。殻があったおかげで、私たちはずっと昔に絶滅してしまった生物の姿を目にすることができます。また、見つかった化石の量や種類などから、生物の繁栄や絶滅、進化の過程、当時の気候等を推測することもできるのです。

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「富山の大地の化石から」のコーナーでは、富山県内の主な地層から見つかった化石が展示され、その地層が形作られた時代や、当時の環境について解説されていました。また、「いろいろある殻どんなから」のコーナーでは、二枚貝や巻貝、節足動物に腕足動物、サンゴ、珪藻、卵の殻・・・といった様々な殻の種類や、それらが生息した年代等が紹介されています。

個人的に好きなのが、有孔虫などのミクロの殻たち。「富山の海のなぎさから」のコーナー等で紹介され、顕微鏡で実物を観察することもできます。肉眼では砂と見分けがつかないほどですが、顕微鏡で拡大すると、美しい殻の構造を見ることができます。レンズの中に広がる世界に、惹きつけられます。

そのほかにも、生物にとっての殻の役割や、殻から過去を知る方法、人間の生活に殻が役立っていることなど、多角的な視点から殻が紹介されていて、殻に対する認識を新たにしてくれました。

恐竜に比べると地味な印象のある(失礼)、殻の化石。しかし彼らは、何億年にもわたる大地の記憶を私たちに教えてくれるだけでなく、人間の生活に欠かせない存在ともなっています。そんな殻に対する愛情とリスペクトを感じる企画展でした。

富山を旅する

常設展示室の1・2階では、主に富山の自然が紹介されています。

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1階の「とやま・時間のたび」エリアでは、富山がまだ大陸の一部であった3500万年以上前から現代にいたるまでの、地形の変化や生物の歴史が紹介されています。

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上の写真は、「1億1000万年前に恐竜が踏みしめた大地」。富山市南東の大山地域で発見された、国内最大規模の足跡化石露頭を復元したものです。獣脚類・竜脚類など、複数の恐竜の足跡のほか、小さな鳥類の足跡も見られ、狭い範囲に多くの生き物の痕跡が密集していることに驚かされます。

一見ただの岩のようにも見えますが、どんな生き物の足跡が見られるのか、映像(プロジェクションマッピング?)を使った説明を見ることができます。また、解説パネルに「見どころポイント」がまとめられ、どこをどのように見ればよいのかを教えてくれます。丁寧な解説があると、想像力を働かせやすくなりますね。

そのほか、岩石や化石についても、地形の成り立ちと併せて、見るべきポイントやその特徴などが示され、観察する楽しさを教えてくれる内容でした。

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上の写真は、2階の「とやま・空間のたび」エリア。標高3000メートルの立山連峰から、水深1000メートルの富山湾まで、特色ある富山の自然が紹介されています。

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こちらの写真は、少し分かりにくいですが、高山地帯に生きる昆虫の標本展示。背景の写真のおかげで、虫たちの生きる環境をイメージしやすくなっています。

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富山の河川は、源流の標高が高く、海までの距離が短いため、急流が多いそうです。上の写真のスロープは、立山連峰を源流とする常願寺川の勾配を、縮小して再現しているとのこと。落差350mの称名滝は、写真の左下にある「!」マーク部分に、段差として表現されています。この坂道と、右側に並べられた写真で、常願寺川の特徴を体感できます。

そのほか、とても書ききれませんが、ライチョウダイヤモンドダスト里山、海など、展示内容はバラエティに富んでいて、富山の自然が見せる多彩な表情に驚かされました。

個人的な印象ですが、この科学博物館では、解説が比較的分かりやすいように感じました。要所要所で注目するべきポイントが示されて、展示資料に対する理解を助けてくれます。グラフィックは全体的に統一されたデザイン。標高やトレッキング計画マップなどの情報がすっきりと配置されていました。マンガ入りの解説もユニークで、説明文も長すぎず読みやすかったです。

ところで。

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上の写真は、富山駅近くにある歩道の一画。あれ、何やら見覚えのある勾配が・・・。

やはりこの水の流れは、急流が多いという富山の川をイメージしているのでしょうか。普通なら何も思わず通り過ぎているところですが、展示を見たおかげで、初めてなのにどこかで会ったことがあるような感覚(?)を味わえました。

ほかにも富山の風景の中に、屋敷林や河原の石など、「これは科学博物館で解説されていたアレだ!」というのをいくつも見つけることができました。

博物館の展示を見ると、旅がぐっと楽しくなりますね。いち観光客としておすすめしておきます。

 

TeNQ 宇宙ミュージアム

宇宙の「今」から見えるもの

TeNQ宇宙ミュージアムに行ってきました。「宇宙を感動する」をテーマにした、エンタテインメントミュージアムだそうです。

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入場は、15分ごとの時間指定制。時間になると、スタッフの方が案内してくれます。エントランスから続く薄暗い通路が、非日常感を演出します。

このミュージアムでは、まず迫力のある映像を見てから、展示室に入るシステム。通路を抜けてすぐの「はじまりの部屋」では、壁面いっぱいにプロジェクションマッピングが映し出され、続く「シアター宙」では、床面に空いた直径11mの穴の中で映像が展開します。足元を覗き込むように映像を見ていると、浮遊感があり、まるで宇宙船に乗っているような感覚。スタッフの方の語りで映像がスタートする演出ともあいまって、これから物語が始まるような、ワクワク感があります。

映像を見た後は、展示室に移動。最初の展示室「サイエンス」エリアでは、宇宙探査機の調査で判明した、太陽系の天体の姿が紹介されています。

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火星や小惑星イトカワの地表などは、探査機が撮った写真を使用した、実物大のパノラマで紹介されていて、臨場感をもってその姿を捉えることができます。

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また、このミュージアムの目玉の一つが、館内に東京大学総合研究博物館の研究室分室が置かれていること。研究者たちが働いている様子や、研究内容を知ることができるほか、来館者が研究に参加できるコーナーもあり、研究者と来館者の双方向的なやりとりが図られています。探査機から送られてきた、最新の画像も公開されていて、宇宙の「今」に触れられる環境は、刺激的です。

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上の写真は、個人的に好きなコーナー。

天井の丸いスクリーンに流れる映像を、下のソファにゆったりともたれて眺めることができます。映像は、地球観測衛星が撮影したもの。じーっと見ていると、まるで自分が人工衛星の目になって地球を見下ろしているような気分になります。ソファに体を預けたまま日常を離れる感覚に、癒されます。

でもどうして、わざわざ地球を飛び出して、宇宙のことを調べようとするのでしょう? こちらの解説によると、「宇宙さがしは自分さがし」とのこと。生命はどこからやってきたのか、地球はどんな仕組みで成り立っているのか・・・宇宙の様々な天体を調べることで、これらの答えを探そうとしているそうです。

それは、「自分とは何か?」という問いにもつながります。長きにわたって多くの人を惹きつけてきた、魅力的なミステリーです。

宇宙が遊び場

2つ目の展示室は、「イマジネーション」エリア。

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ゲームやアート、星座の形を楽しむオブジェなど、「宇宙から想像をかきたてられて生まれたコンテンツ」を楽しむことができます。こちらのエリアは「がっつり理系」ではなく、分野に囚われない自由さと、遊び心が感じられます。

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上の写真は、「宇宙自分診断」。いくつかの質問に答えると、「あなたに似た人工衛星は?」「あなたはどんな宇宙人タイプ?」などのテーマに沿って、性格診断してくれます。ちなみに、私に似た人工衛星は、「れいめい」でした。似ていると言われると、どんな人工衛星なのか、ちょっと興味がわきますね。

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そして上の写真は、このミュージアムの大きな特徴と言える「ミッションラリー」。展示に関する謎解きゲームが、ガチャガチャに入れられています。有料、大人向け、「難しいです!」という注意事項付き。でも、大勢の人が、これを楽しそうにやっていました。

博物館に行けば解説文を読んで勉強する、というかつてのイメージとは異なり、ここでは、来館者が仲間とわいわい言いながら、楽しく遊べる工夫がなされています。迫力のある映像や、リアルタイムの宇宙を見せる展示手法などと併せて、一つの新しいミュージアムの形を見るように思います。

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こちらの写真は、出口付近にある「コトバリウム」。印象的な言葉たちが、プラネタリウムのように映し出されます。サイエンスエリアが知るためのコーナーだとすれば、こちらは感じるためのコーナーでしょうか。思いがけない言葉に、出会えるかもしれません。

ところで。

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上の写真は、とあるお寺のお庭。砂と石組みで、雄大な自然や仏教の世界観を表現する枯山水は、時に「宇宙を感じさせる」と言われることもあります。シンプルな石組みが形作る世界に、多くの人が引き寄せらせます。

イマジネーションを働かせて(?)、「宇宙」から枯山水を連想してみましたが、そういうお庭を前にしたときの感覚を思い出すと・・・、本当に人の想像力をかきたてて、その心を解き放つのは、目には見えないもの、いまだ闇に閉ざされた部分ではないかなあと思います。まだ見ぬ世界に心を遊ばせ、未知の自分を発見する・・・宇宙ミュージアムの楽しさの一つも、そういうところにある気がします。

根津美術館「酒呑童子絵巻 ―鬼退治のものがたり―」

庭園と古美術の森で

根津美術館に行ってきました。

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本館は隈研吾氏の設計。敷地に入ると、静かな竹林を思わせる通路が伸びています。そこを歩いて、建物の入口へと向かいます。

こちらの美術館は、東武鉄道の社長などを務めた実業家・根津嘉一郎氏のコレクションを保存・展示するために作られたとのこと。中国や日本の古美術を中心としたコレクションには、国宝・重要文化財等も含まれ、個人のコレクションとは思えないほど充実しています。

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上の写真は、ホールに展示されている如来立像。6世紀の中国のもので、白大理石で作られているそうです。手の部分が失われていますが、すっきりとした立ち姿が美しいです。

6つある展示室では、企画展のほか、古書画や茶道具、宝飾時計などが展示されていました。中でも印象的だったのは、紀元前十数世紀の中国の青銅器です。酒器などとして使われたという容器は独特の造形で、饕餮(とうてつ)という伝説上の生き物などをかたどった、精緻な装飾が施されています。一体どんな人たちが使っていたのでしょうか。殷代の王墓から出土したと伝わるものも含まれる、豪華なコレクションでした。

また、広いお庭も見どころの一つです。

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豊かな緑が目を楽しませてくれるほか、園内は起伏に富んでいて、様々な表情を見せてくれます。庭園内のカフェでお茶やランチをいただくこともでき、何時間でもここで過ごせそうです。

酒呑童子に会う

訪れた日には、企画展酒呑童子絵巻 ―鬼退治のものがたり―」が開催されていました(会期は2019年2月17日まで)。

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酒呑童子の物語には、鬼のすみかによって、大江山系と伊吹山系があり、根津美術館が所蔵する絵巻はいずれも伊吹山系とのこと。

この企画展では、3種類の酒呑童子絵巻(それぞれ、16世紀、17世紀、19世紀に制作されたもの)が展示されていました。出展作品はその3作のみ、というシンプルな構成です。

16世紀の絵巻は最も素朴な画風で、酒呑童子は愛嬌のある姿。17世紀の絵巻は狩野派の絵師によるもので、鮮やかな色彩で風景や植物が丹念に描かれています。

そして19世紀に制作された住吉弘尚筆の絵巻は、繊細で生き生きとした筆致。こちらは全8巻が、解説付きで展示ケースの中に長々と広げられていて、来場者がストーリーをしっかり追えるようになっています。そこでは、他の絵巻にはなかった、酒呑童子の生い立ちの物語も語られていました。

それによると、酒呑童子は、近江の郡司の娘と伊吹明神との間に生まれた子供で、3歳から大酒飲みだったとのこと。比叡山に修行に出され、最澄の指導の下、一時はお酒を断ちます。

比叡山時代の酒呑童子は、宮廷の催しのために、大勢で鬼の扮装をする「鬼踊り」を企画しました。7日間で3000個の鬼のお面を作ってイベントを成功させる場面が、前半のハイライト。一風変わった趣向で盛り上がる様子が、賑やかに描かれています。しかし、その褒美として与えられたお酒が原因で、酒呑童子比叡山を追われることとなりました。

そして後半は鬼退治の場面。源頼光たちが、神々の助力を得て、酒呑童子のすみかに乗り込みます。鬼たちを油断させるため、頼光たちが人肉を平気で食らってみせる場面も描かれていました。

毒酒を飲まされ、討ち取られた酒呑童子の首は、頼光の頭にかみつきますが、神から授かった星兜の力で、頼光は守られます。捕らわれていた女性たちも解放され、めでたしめでたし・・・という勧善懲悪の物語のはずなのですが、生い立ちを知ってしまうと、酒呑童子がちょっと可哀想に思えてきます。そんなふうに、実物の絵巻物をじっくり見ながら、物語世界を楽しむ体験は貴重でした。

巻き取るたびにくるくると物語が展開する絵巻物は、現在の動画のような感覚かもしれませんね。巻き戻しや一時停止も自由自在です。

ただ、現代のようなお手軽さはありません。上質の素材を使い、高名な絵師に絵を描かせ、美しい筆跡でストーリーを語らせる絵巻物は、何とも贅沢なものに思えます。誰かを喜ばせるために、作られたこともあったのでしょうか。

ところで。

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写真は、兵庫県播磨国総社の中にある「鬼石」。案内板には、源頼光大江山の鬼の首を持ち帰って案内社八幡宮の傍らに埋めた際、目印に置いたもの、というようなことが書かれています。

真偽のほどは分かりませんが、鬼退治に参加していたとされる藤原保昌が播磨ゆかりの人物らしいので、そのつながりでしょうか?

意外な場所で物語の主人公に会える・・・かもしれません。

京都文化博物館「古社寺保存法の時代」

激動の時代と文化財

京都文化博物館に行ってきました。博物館の建物は、旧日本銀行京都支店(1906年竣工)です。

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総合展示室では、「古社寺保存法の時代」展が開催されていました(会期は2019年3月3日まで)。

古社寺保存法は、1897年(明治30年)に制定された、文化財保護のための法律。この博物館では、文化財保存をテーマにした催しを定期的に開いているそうです。

一番最初に展示されているのが、江戸時代に松平定信が中心となって編集した「集古十種」。全国各地に伝わる文化財を調査し、書画や兵器など10種類に分けて、図録にまとめたものです。丁寧なスケッチとともに、文化財の色や材質、状態などが記録されています。

それぞれの所有者によって、ばらばらに保管されてきた伝世品。それらをカタログにまとめて、所在や状態を確認したことには、大きな意義があると思われます。

明治になり、文化財のあり方に大きな影響を与えたのが、1868年(3月)の神仏分離です。廃仏毀釈による仏像等の破壊、社寺の経済的困窮による宝物の流出・・・。この時期に失われてしまったものも、多くあるのでしょう。

展示資料の一つ、明治政府の布告を伝える1868年(4月)の布令書では、神仏分離は仏像等を破壊する趣旨ではないとして、破壊行為を禁止しています。当時の文化財を取り巻く状況への危機感が表れているようです。

そして、その後の文化財調査や博覧会開催、博物館の建設、それに合わせた法整備など、文化財保全に向けた動きが、資料で紹介されていました。

京都帝国博物館の建設準備が進められていた1890年、帝国博物館総長・九鬼隆一が、当時の北垣国道京都府知事に送った書簡が展示されていました。そこには、社寺が所有する重要な文化財のうち、動かせるものは博物館に移し、観覧料収入を所有者に配分して、社寺を維持するための補助とする構想が記されていました。この案は、実行に移されたそうです。

明治の仕事

会場では、当時の文化財修理についても紹介されていました。

文化財調査によって、長年伝えられてきた文化財の損傷・劣化が明らかとなり、修理の手法が確立されていない中で、試行錯誤が行われたとのこと。

例えば巻物は、巻いたり解いたりする行為が傷みにつながるということで、額装に変更したり、絵の部分だけ開いた状態で保管したり・・・様々な手段が考案され、現在ではあまり使われていない方法も試されたそうです。修理の仕様書や、その頃修理された絵画などが展示されていて、工夫の跡を見ることができます。

先駆的な国宝の修理技術者として紹介されていたのは、伊藤若冲作品などの修理を手がけた伴能廣吉。定木や筆など、伴能が実際に使っていた道具も展示されていました。修理関係書類や葬儀記録などから、信頼を集める技術者であったことが分かります。

また、岡倉天心を中心とする日本美術院が、文化財の修理を広く手がけました。そのメンバーの一人で、古像修繕の第一人者であった、新納忠之介の調査手帳が展示されていました。

新納は、岡倉天心から、職人ではなく研究としてやらなければならないと諭されたとのこと。整理され、びっしりと書き込まれた数十冊の手帳は、一つ一つ状態の異なる文化財に正面から向き合ってきた記録でしょうか。先人への敬意を持った真摯な仕事ぶりが伺えるようです。こういった、多くの仕事の積み重ねの上に、現在があるのですね。

ところで。

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こちらは、滋賀県の琵琶湖から京都へ水を送る琵琶湖疏水の写真。この建設は京都府知事の北垣国道が計画したもので、1890年(九鬼隆一が前述の書簡を送った年)に、第一疏水が完成しました。古社寺保存法の成立や京都帝国博物館開館の、7年前のことです。

新しいものが多く作られ、社会が大きく姿を変えた明治時代。穏やかに水を湛える疏水は、同時に、当時のパワーを伝える痕跡の一つかもしれません。流れに巻き込まれつつも、激動の時代を支えた人々の懸命さに、一種の憧れを覚えます。

(最後になりましたが、琵琶湖疏水の写真は、私の敬愛する先輩からご提供いただきました。感謝申し上げます。)