博物館ランド

ミュージアムの面白かったところをレポートするブログです。

京都文化博物館「古社寺保存法の時代」

激動の時代と文化財

京都文化博物館に行ってきました。博物館の建物は、旧日本銀行京都支店(1906年竣工)です。

f:id:kamesanno:20190303212702j:plain

総合展示室では、「古社寺保存法の時代」展が開催されていました(会期は2019年3月3日まで)。

古社寺保存法は、1897年(明治30年)に制定された、文化財保護のための法律。この博物館では、文化財保存をテーマにした催しを定期的に開いているそうです。

一番最初に展示されているのが、江戸時代に松平定信が中心となって編集した「集古十種」。全国各地に伝わる文化財を調査し、書画や兵器など10種類に分けて、図録にまとめたものです。丁寧なスケッチとともに、文化財の色や材質、状態などが記録されています。

それぞれの所有者によって、ばらばらに保管されてきた伝世品。それらをカタログにまとめて、所在や状態を確認したことには、大きな意義があると思われます。

明治になり、文化財のあり方に大きな影響を与えたのが、1868年(3月)の神仏分離です。廃仏毀釈による仏像等の破壊、社寺の経済的困窮による宝物の流出・・・。この時期に失われてしまったものも、多くあるのでしょう。

展示資料の一つ、明治政府の布告を伝える1868年(4月)の布令書では、神仏分離は仏像等を破壊する趣旨ではないとして、破壊行為を禁止しています。当時の文化財を取り巻く状況への危機感が表れているようです。

そして、その後の文化財調査や博覧会開催、博物館の建設、それに合わせた法整備など、文化財保全に向けた動きが、資料で紹介されていました。

京都帝国博物館の建設準備が進められていた1890年、帝国博物館総長・九鬼隆一が、当時の北垣国道京都府知事に送った書簡が展示されていました。そこには、社寺が所有する重要な文化財のうち、動かせるものは博物館に移し、観覧料収入を所有者に配分して、社寺を維持するための補助とする構想が記されていました。この案は、実行に移されたそうです。

明治の仕事

会場では、当時の文化財修理についても紹介されていました。

文化財調査によって、長年伝えられてきた文化財の損傷・劣化が明らかとなり、修理の手法が確立されていない中で、試行錯誤が行われたとのこと。

例えば巻物は、巻いたり解いたりする行為が傷みにつながるということで、額装に変更したり、絵の部分だけ開いた状態で保管したり・・・様々な手段が考案され、現在ではあまり使われていない方法も試されたそうです。修理の仕様書や、その頃修理された絵画などが展示されていて、工夫の跡を見ることができます。

先駆的な国宝の修理技術者として紹介されていたのは、伊藤若冲作品などの修理を手がけた伴能廣吉。定木や筆など、伴能が実際に使っていた道具も展示されていました。修理関係書類や葬儀記録などから、信頼を集める技術者であったことが分かります。

また、岡倉天心を中心とする日本美術院が、文化財の修理を広く手がけました。そのメンバーの一人で、古像修繕の第一人者であった、新納忠之介の調査手帳が展示されていました。

新納は、岡倉天心から、職人ではなく研究としてやらなければならないと諭されたとのこと。整理され、びっしりと書き込まれた数十冊の手帳は、一つ一つ状態の異なる文化財に正面から向き合ってきた記録でしょうか。先人への敬意を持った真摯な仕事ぶりが伺えるようです。こういった、多くの仕事の積み重ねの上に、現在があるのですね。

ところで。

f:id:kamesanno:20190303185504j:plain

こちらは、滋賀県の琵琶湖から京都へ水を送る琵琶湖疏水の写真。この建設は京都府知事の北垣国道が計画したもので、1890年(九鬼隆一が前述の書簡を送った年)に、第一疏水が完成しました。古社寺保存法の成立や京都帝国博物館開館の、7年前のことです。

新しいものが多く作られ、社会が大きく姿を変えた明治時代。穏やかに水を湛える疏水は、同時に、当時のパワーを伝える痕跡の一つかもしれません。流れに巻き込まれつつも、激動の時代を支えた人々の懸命さに、一種の憧れを覚えます。

(最後になりましたが、琵琶湖疏水の写真は、私の敬愛する先輩からご提供いただきました。感謝申し上げます。)