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京都国立近代美術館「ドレス・コード? ―着る人たちのゲーム」に行ってきました

「着る」ことを考える

京都国立近代美術館に行ってきました。ICOM京都大会の開催に合わせ、「ドレス・コード? ―着る人たちのゲーム」展が開催されています(会期は2019年10月14日まで)。この特別展は、京都国立近代美術館と京都服飾文化研究財団との共同開催です。

入って最初のコーナーは、「裸で外を歩いてはいけない?」ミケランジェロ・ピストレット作「ぼろきれのヴィーナス」が展示されています。少し体をくねらせて、ぼろ布の山の前に立つヴィーナスは、どの服を着るべきか迷っているようでもあり、大量の服の処分に困っているようでもあります。ヴィーナスの場合は、ぼろきれを着なくても裸のままで良さそうですが、私たちはそういうわけにもいきませんね。

展示室には、歴史的衣装やファッションブランドの製品、マンガとのコラボ作品、ファッションをテーマにしたアーティストの作品など、多彩なアイテムが展示されていました。そして、コーナータイトルは、「教養は身につけなければならない?」「大人の言うことを聞いてはいけない?」など、すべて問いかけ形式。服を着るという行為がいたって身近であるために、自らの日々の装いについても、つい考えさせられます。

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「組織のルールを守らなければならない?」のコーナーでは、19世紀から20世紀にかけての様々なスーツがずらりと並んでいました。現代ビジネスパーソンの制服とも言えるスーツ。襟の幅やズボンのシルエットなど、デザインの違いで印象も異なり、流行の移り変わりも見てとれます。

また、同じコーナーには、制服を着た学生が登場する映画のポスター展示もありました。清楚な女子高生あり、「不良」あり。制服を着ることは、ある組織に属していることを示す一方で、着こなしによっては、組織からはみ出していることを表す場合もあります。

ちなみに、女性の社会進出を後押しし、革命的とも言われたシャネル・スーツは、「服は意思をもって選ばなければならない?」のコーナーにありました。自分らしい、自由で新しいスタイルと、多くの人が認めるエレガントさ。それが両立していればこそ、広く支持を集めたのかなと思います。

「働かざるもの、着るべからず?」のコーナーでは、もとは労働のための衣服であったジーンズが、しだいにお洒落なアイテムと見なされるようになった様子などが紹介されていました。ドレス・コードも、時代によって、あるいは場所によって、決して不変ではありません。

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上の写真は、同じコーナーに展示されていた「アシードクラウド」。架空の職業をテーマにデザインされた洋服とのこと。現実世界にありながら、どこかファンタジーの世界観を感じさせてくれます。

ゲームの参加者

一般人のファッションを写した写真の展示も印象的でした。

「他人の眼を気にしなければならない?」のコーナーに展示されていたのは、ハンス・エイケルブームの「フォト・ノート1992-2019」。これは、世界各地で道行く人を撮影した膨大なスナップ写真の中から、同じような服装の人を何組か集めて展示したものです。まったく違う人でも、服装が同じであれば似たような印象を持ってしまう・・・他人を見た目で判断するときの、服装の重要さに気づかされます。一方で、異なる脈絡で生きている人たちが、偶然同じ服を着ている様子は、なんだか面白いです。

「誰もがファッショナブルである?」のコーナーには、都筑響一の「ニッポンの洋服」が展示されていました。レディース(暴走族)、ロリータ、極道ジャージなどなど、日本各地のローカルなドレス・コードが、写真と解説で紹介されています。時にはつつましく、時には周囲に眉をひそめられながらも自らのファッションを貫く人々と、それらを愛おしむような都筑氏の視線が素敵です。

自己の感性や主張、他者の評価、世間一般のドレス・コード、お値段、快適さ・・・時に相反する要因を勘案しながら私たちは服を選び、そしてそれは否応なしに自らの内部を表現することにつながります。何を着るべきか。そして、他者の服装から何を読み取るべきか。移り変わるドレス・コードに振り回されつつ、私たちは日々、気の抜けないゲームを繰り広げています。

そういえば、この展覧会のお客さんにはお洒落な人が多い、気がします。展示物以外の見どころかもしれませんね。

ところで。

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上の写真は、兵庫県立考古博物館に展示されているフィギュア。古代の戦いの服装が、発掘された資料をもとに再現されています。

当然ながら、この時代にはすでに「着る人たちのゲーム」は始まっていたことでしょう。そして実際に写真の彼も、その服装によって明確なメッセージを発しています。私たちも同じゲームの参加者として(?)、しっかりそれを受け止めたいものです。